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社外プロジェクト千々石ミゲル夫妻墓所発掘調査
全4次に渡り実施された発掘調査。
オリエントアイエヌジーでは
第3次調査の際に社員2名を派遣。
第4次調査においては、すべての発掘調査を行いました。
天正遣欧使節と
千々石ミゲル-
1582年(天正10)に九州のキリシタン大名たちがローマ法王のもとに派遣したとされる天正遣欧使節、その4人の少年の一人が千々石ミゲルである。キリシタン大名・大村純忠の甥、有馬晴信の従弟にあたり、帰国後イエズス会に入会するが、それから約10年後には退会し、キリスト教の信仰も捨てたといわれていた。
イエズス会退会の後、キリシタン王国時代の大村藩主・大村喜前や日野江藩主・有馬晴信に仕える。その後、 長崎に移住したといわれるが、 その晩年は不明であった。
千々石ミゲル夫妻の
墓発見-
諫早市多良見町山川内のミカン畑に覆われた丘陵の中腹に自然石の巨大な墓石が建っている。正面右に「自性院妙信」、左に「本住院常安」という被供養者の戒名が刻まれており、「妙信」は寛永9年12月12日(1633年1月19日)に没し、「常安」はその二日後に没したことがわかる。裏面にはミゲルの四男にあたる「千々石玄蕃允」の名が刻まれている。
墓は、大村藩の城代家老を務めた浅田家の所有地にある。浅田家には千々石玄蕃の娘が嫁いでおり、浅田家に遺る古文書にもこの墓について記されている。これらのことから四男玄蕃によって建てられたこの墓の被葬者が、千々石ミゲルとその妻であることが大石一久によって唱えられたのは2003年であった。
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第1・2次調査
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墓所の建立当時の姿を確認するために第1次調査、第2次調査を実施し、墓石が建てられていた一辺2.8mの基壇が明治時代のはじめ頃に整備され、墓石が本来の位置でないことが明らかになった。ただ地中レーダー探査では基壇の下層に墓壙(遺体を納めた穴)の存在を推定させる反応があった。
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第3次調査
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第3次調査では基壇を解体し、下部の調査を実施した。 その結果、基壇の北部下部から遺体の埋葬施設を検出し(1号墓壙)、さらに東側でも新たにもう1基の埋葬施設の一部を検出した(2号墓壙)。1号墓壙では長持を棺として埋葬された女性の遺骨を検出した。さらにその胸元からガラス板片やカラス玉などの遺物が発見された。
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第4次調査
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今回の第4次調査では2号墓壙の調査を実施し、成人男子の遺骨を検出した。さらに墓石が本来建てられていた位置を確認し、千々石ミゲル夫妻伊木力墓所の造営過程や構造を明かにすることができた。
埋葬より先に建てられた墓石
石組遺構の東西辺中軸の北側、1号墓壙、2号墓壙の中間部の北側から、現況で長さ1.1m以上、幅0.8m、深さ0.3mの平面長円形の土坑を見出した。この土坑は規模が、墓石の基部の大きさとおおよそ合致することから墓石の造営当時の掘方(墓石を立てるための坑)と考えられる。また、近接して円形の小穴が掘られ、その中に、土師器坏の完形品が裏返して置かれた状態で出土した。坏の下には長さ約9cm、幅約2.5cmの円礫が置かれていた。これはおそらく墓石を立てる際の地鎮的な意味合いを持つものと考えられる。この周辺には2か所焼土面も発見されており、造営に伴う儀礼的行為の痕跡であると思われる。
墓石を建てたのちに周囲を固めた礫混じりの整地層が1号墓壙と2号墓壙によって切られていることが判明したので、墓所造成の工程の中で墓石は埋葬に先立って建てられたことが明らかになった。
集石遺構
1号墓壙、2号墓壙の全体を覆うように人頭大から拳大の安山岩礫が乱雑に厚さ30cm前後に積み上げられた状態で検出された。 南北約4.8m、 東西約2.1mの長方形を呈す範囲である。集石遺構の下部からは2基の埋葬施設が検出された。 ふたつの墓壙に切り合いはなく、 主軸をそろえていることから、ほぼ同時に設けられたものと考えられる。
2号墓壙の状況
今回の第4次調査で確認した2号墓壙は、東西約2.5m、南北約1.3m、深さ約1.0mを測る。墓壙の底に長さ約1.40m、幅約40cm、深さ約30cmの木棺が納められていた。棺に打たれていた鉄釘の総計は100点近くを数える。遺体の頭部側の小口から多数の釘が検出されている。
2号墓壙の被葬者
被葬者は西側に頭を置き、腕を曲げ、さらに足を極端に曲げた側臥屈肢(横向きで足を曲げる) の姿勢で埋葬されていた。大腿骨、寛骨、脛骨、腓骨、足骨、前腕骨、上腕骨、肋骨、肩甲骨、下顎骨、上顎歯、下顎歯、前頭骨、頭頂骨・側頭骨から後頭骨などが遺存していた。2号墓壙の被葬者は成人男性である。
1号墓壙から出士した
キリシタン信仰具-
板ガラス片はアルカリガラス片で現存長約27mm、現存幅約15mm、厚さ約1.5mmを測り、本来楕円形を呈す。表面には汚れによる色変わりがみられ、近辺から出土した繊維片によって緑取りされていたと推定される。
玉類は大きさから三種類に分類できる。直径5mm前後(白色玉、青色玉)、4mm前後(紺色玉、黒色玉)、3mm以下(琥珀色玉)であり、一部鉛ガラス製のものも含まれるが、大部分がアルカリガラス製である。
板ガラス片と玉類、そして繊維片は一連の遺物として被葬者の胸元に掛けられていたと推測される。
千々石ミゲル夫妻
伊木力墓所の全体像-
今回の第4次調査によって千々石ミゲル夫妻伊木力墓所の全体像が明らかになった。墓所を造営するにあたって削平と整地が施され、地鎮のための儀礼をおこない、山際の墓所のもっとも奥まった場所に墓石が建てられた。その後に2基の埋葬施設を造営して、埋葬施設を覆うように長方形の集石遺構を造り地上の標識としたのであろう。
通常は埋葬後に墓石を建てるが、この墓所では墓域を設定するかのように、埋葬と同時に墓石を設置している。これが本遺跡の大きな特徴である。並列して築かれた2基の墓壙に切り合い関係はなく、さらにそれぞれ埋め戻し後に、その上部に集石遺構を一体的に構築していることから、ほば同時に造営埋葬されたと考えられる。墓石に刻まれた「自性院妙信」「本住院常安」、ミゲルとその妻の没年月日は二日の差しかない。二つの墓境については考古学調査の成果とも矛盾しない。
2基の埋葬施設の被葬者は、その遺骨から成人の男子と女子であることが判明した。墓石に刻まれた銘の分析から千々石ミゲル夫妻の墓所とされてきたが、墓所の考古学調査により墓石の銘文を実証したといえる。
妻は胸にキリシタンの信仰遺物をもって鍵をかけた長持に納めて埋葬されている。キリスト教を棄教したと考えられてきた千々石ミゲルの妻の信仰を示すものである。ミゲルの墓からは副葬品の出土は見られなかった。しかし一般的にキリシタン墓では副葬品の出土は著しく少なく、また妻と同じ埋葬姿勢でほぼ同時期に埋葬されていることから、ミゲル自身も妻と信仰を共有していたとしても不自然ではない。